春分も過ぎて

◎久しぶりの更新です

 

ご無沙汰しております。

 

前回の冬至から忙しくて更新できないまま、春分も過ぎてしまいました。

 

その間、様々なお話しが出てきていたのですが、いらした方にタイムリーに伝えていると、ほどなくして次の展開となっていき、ここに書くのもためらうような内容まで出てきています。

 

 

 

断片的に思いつくまま書けることを書いておきます。

 

 

まず、日本がキメラ化している最中で、このことは前からいわれていたのですが、ある事柄でほぼ完成するということが今日話に出てきました。

 

(キメラ化については、いまは書きません。)

 

これから日本が世界をけん引するかのような話をスピ系の話題で見聞きすることがありますが、私が感じているものは一般的にイメージしているものとは真逆といいますか、見方によってはなかなか厳しいものがあります。

 

トランプ大統領になったアメリカは、いま大きな変化が起きています。

 

しかし、日本はどうでしょうか。

 

このあたりのこともキメラ化に関わる話なので書きませんが、よそに目移りして足元が疎かになっている私達日本人、といったところです。

 

これから数年かけて、この国に暮らす私たちはかなり追い込まれていく感じがしています。

 

一方で、その先に感じている可能性も、仕事を通して見えつつあります。

 

 

 

仕事中、その人の現在の課題に至る過去生と思しき光景を見せられることが、ここ1~2か月増えています

 

 

改めてそれらを思い返してみると、これまで蓋をされていたものが、ここにきて徐々に解放され始めているようです。

 

基本的に、過去生かどうかわからないものに執着しても時間の無駄です。

 

いまある問題や課題を、どう自分のためになるように解決したり改善することができるかのほうがはるかに役に立ちます。

 

ただ、実際にお話しをしていると、いまの自分の生き方の裏付けとして納得できたとき、それまではぼんやりしていたい取り組みが、より明確に自覚して取り組めるようになることもあるため、いまの自分に役立てられるのであれば、それはそれでいいと思います。

 

そういった話が出る方は、ある程度やることをやってきたという人達が対象で、いまはそういう人達に対して映像を見せられていると考えています。

 

 

 

いま納得して生きていれば、過去も受け入れていけます。

 

不意に思い出すいやなこと、恥ずかしい失敗、やらかして後悔しつづけていること、など。

 

自分に都合のいい気分のいいことだけで「私」は成り立っているでしょうか。

 

自分を認め受け入れるとき、そういったものこそ排除し否定しがちです。

 

それらも含めて自分です。

 

今ここに至る一本道、何処を切り取ってないものにしても、今の自分はありません。

 

一度にできることは一つだけ。

 

さまざまな選択を繰り返し選んで歩んできた自分という一本の道筋を認め肯定していくことが、生きる意味の一端ではないかと思うことがあります。

 

外の事象すべてをこの体一つで経験することはできません。

 

自分の手の届くところだけ、限られたところを一つずつ認めていくことと、自らを認めていくこと。

 

正当化するのではなく肯定すること。

 

 

 

いま私を取り巻く人たちとの関係性は、すべてではなくある要点を抑えた感じですが、キメラも含めたすべての縮図のように感じています。

 

目の前のことが全体に通じていると感じながら、仕事に取り組むことも増えてきました。

 

そうした繋がりは、日常の肯定の積み重ねとともに変わってきた感じがしています。

 

時の流れが早く感じられる、ということがありますが、似た感じで、つながりを通して見える世界と見えない世界の空間的な広さに対して感覚の変化が起きているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

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