明日は冬至です。
以前書きましたが、夏至や冬至はそれまでやってきたことの結果を見る、一つの節目です。
明日を境に前後の期間、隠れているものがあぶりだされるように、自らに向き合うことも起きている人もいるでしょう。
節目節目を超えながら、負荷が増していく、ということも書いていたことがありますが、それに似た話が出てきたので書いておきます。
1年は経っていないと思いますが、これからしばらく綱渡りのような時期になる、ということを以前書きました。
夢で見た話でしたが、何百メートルもの高さで先の見えないロープでできた吊り橋を渡っていくのですが、まわりとのバランス感覚に気を付けつつ、一歩一歩確かめながら歩みを止めないことで、なんとか抜け出していくことができる、というものです。
気を抜けば真っ逆さまに奈落の底、という可能性もありました。
その期間を今月に入ったあたりから抜けた感じがありました。
先が見えない中、それでも前に進んでいく、という光景は、方向性が定まっていない、具体的になにを目指していいかわからない、でもこっちに進まなくてはいけないような気がする、という状況を暗に示していたのかもしれません。
先日お話しをしながらそれに代わって見えてきた光景がありました。
それは、黙々と山を登っていく光景です。
こちらもやはり先は見えません。
それもで道の先になにかあるのを感じており、今度は夜の雪山の吹雪の中を、シェルパ(登山の手助けをする案内人)のように大きな荷物を背負いこんで、一歩一歩歩んでいきます。
まわりは暗く前もまともに見ることができませんでした。
これを書いていて何年も前に見た夢を思い出しました。
その夢では、私は高齢の魔法使いのような男性と山を登り始めていました。
ぎりぎり間に合った、これから最後の登山に向かう、不二の山を登っていく、そういうことを感じていたことを覚えています。
その男性は守護霊さんのような存在で、不二の山とは、他でも自分の人生を歩んでいく、というニュアンスが込められていました。
まだ深夜のような暗い中、二人きりでスタートしたのを思い出しました。
その光景にとても似た感じがしています。
これまでよりよく生きる取り組みをしてきた方たちは、これからそれぞれの不二の山登りをする、ということになるようです。
ただ目の前の足元を見ながら、暗い山の夜道を一歩ずつ進みます。
重い荷物を背負い、誰かに頼ることもできず、独り黙々と進むしかない状況ではあります。
ただ、自分に向き合いながら足腰を鍛え、生きていく力を蓄えてい期間でもあるため、目的をもってそれを自覚しながら歩んでいけるのであれば、寂しさやつらさはそれほどないのかもしれません。
自分のためにやっている、そう思いながら進んでいけるのであれば、負わされた負荷ではなく、自らを鍛えるための前向きなものとなっていきます。
非常に過酷ではあるものの、悲壮感や緊迫感といった感じはそこまで受けない光景でした。
これまでやってきたことをしっかりその身に染み込ませて熟成させていくような印象です。
これに該当するのは、仕上げの時期に入る人たちなのかもしれません。