5月に入り

◎私たちの負荷になりうること

 

私が感じている今後負荷になりそうなことについてざっと書いておきます。

 

 

 

 ・コロナウイルスに対しての思い込み

 

 ・ドンパチやっていることの先

 

 ・地震と津波と火山活動に台風などと、気象の不安定からくる食糧の問題や私たち自身の体調のこと

 

 ・他にも大小さまざまな事柄が個別に起きていく中で、それらに呑まれていくことで更に重い雰囲気が醸成されていき、それ自体がさらなる負荷となる

 

 

 

◎コロナウイルスに対しての思い込み

 

これは、コロナウイルスにまつわるあれこれの中で、陰謀論や実際に起きていることや公表されているデータ、有識者の見解やネット上にあふれている玉石混交の情報の数々などから、個々に出来上がった思いこみをもとに、私たちそれぞれが思うように生きています。

 

しかし、ワクチンがきっかけになっていることも含め、その変異の内容や影響などが、世界で起きていることはすでにエゴの私たちの理解や想像を超えており、私たちのほとんどが前提にしていることでは対処できなくなりつつある、といわれました。

 

後遺症や副作用などが、何日、何週、何か月、何年、というバラバラの時間差で表れるということが、一つのその大きな要因となっているそうです。

 

信じたくない、ということもありますが、分かりづらいことに対しては、根気が続かないために安易にお手上げになるようです。

 

コロナ対策は緩和され、経済活動を中心に社会はコロナの影響のピークを抜けて次のステージに移行しつつあるように考えている人も多いでしょう。

 

私が言われて感じているいまの社会は、エゴの私たちはすでに根気が続かなくなり、ウイルスの持続的な変異と影響力の拡大が続く状況の変化に対し、許容できるキャパを越えてしまっている、というものです。

 

コロナやワクチン由来のなにかの影響力が弱まったから経済を回復させる方向にシフトしているのではなく、変化に対処しきれず思考停止ともいえる状態に多くの人たちがなってしまっているため、もうそろそろいいんじゃない、という感じになって開放的になってきているそうです。

 

そのため、今後コロナの変異の実態に気づく度ににわか仕込みの対処をしていかなくてはいけない、ということをこれからも繰り返すことになるのでしょう。

 

変異と感染の仕方、後遺症の出方など、まだわかっていないものはもちろんありますし、変異した先でそれらが大きく変わっていくことも考えられます。

 

変異の仕方や速度に多様さなど、いろんなことがこれまでになかったものらしいので、これまでのものをもとに判断しようとしても、判断しきれないようです。

 

思い込みで固定化して物事を考える癖から抜け出て、変化し続けるものへの考え方、というものが身についていかないことには、この先コロナ関連の事柄にふりまわされ続けることになりそうです。

 

 

 

◎ドンパチやっていることの先

 

いまあそこで起きていることは、当面落ち着くことはないと思っています。

 

場合によっては今後大国同士の争いへと発展しかねないとも思いますが、このままいくとそれは今年の年末頃のことでしょうか。

 

日本はどんどん進んで巻き込まれにいっているように見えますし、連日メディアで報道されている内容を見続けていれば、その内容を信じ込んでている人たちはそのことに違和感を覚えないのかもしれません。

 

国家間の関係性について段階的に順を追ってなにかが取り決められると、それを後から理屈を無視して一方的に覆すことは、力でねじ伏せる以外あまりないのではないでしょうか。

 

とりあえず、すでに影響を受けている分野もありますが、経済活動での影響がこれから徐々に表れてくるようです。

 

日本も代表が入れ替わる可能性があり、それによって急速にワクチン関係も厳しい状況になるかもしれません。

 

アメリカの中間選挙次第で、誰が次の代表になるのか決まっていくような気がします。

 

バイデンさんが継続だと強気のあの人、トランプさんが選ばれるようなら改めてあの人、という感じです。

 

それによって来年以降の世界情勢は大きく違っていきます。

 

 

 

◎自然災害などについて

 

改めて書いておきたいことは、とりあえず一つ。

 

日本に関して、津波を伴う地震の発生が気になっています。

 

九州から台湾にかけての一帯です。

 

 

 

◎これから

 

夏に向けて気温もあがり、開放的な気分になっていく時期ですが、負荷ということに関していうなら、これまで以上に頻度が増し、かかる負担も増えていきそうです。

 

できる対処は簡単です。

 

賢くたくましくなること。

 

これまで書いてきたことです。

 

あまり大きな出来事もなく、たいして生きづらくなるような展開にならなければラッキーですが、この先どうなったとしてもどう生きていきたいかを決めるのは自分です。

 

イチかバチかで楽して生きられる可能性にかける博打のような選択もできます。

 

ただ、以前も書いたように犬死する自由もあります。

 

暴力的という言葉が適切かわかりませんが、自由という言葉の中には結果的に自らを生きづらくするような荒っぽい面も併せ持つことを忘れずに、自分の好きな生き方を考え、それを行動に移していただければと思います。