◎春分の日
今日いらした方とお話をしていた中で出てきた内容です。
21日(月)春分の日頃から新たな負荷がかかり始める、と言われました。
段階的に負荷が増えていくことは数年前から書いてきましたが、また一つの節目となっていくようです。
春分の日になにか起こる、というよりは、その日頃から何かが始まっていくような感じでした。
地震がまだ続けて発生しそうな感じもしますし、ウクライナの展開もまだ続きそうです。
幻想や願望を抱いたところで、現実で理屈に沿って行動に移していかないことには、自分の思うようには変わっていきません。
私たち各々ができることは、目の前の手の届くことです。
自分がどう生きたいのか、なにをしたいのか、その事の中で考え、真剣に生きていく中で、つながりを通して解決していくこともあります。
自分がどうしたいのか考えようともせず、ただ言われるがまま、流されるまま過ごしていれば、不意な出来事に面食らったり動揺した時に、自分で判断することなくテレビで流れてくる情報やよくわからない人たちの強気な発言を鵜呑みにして、よくわからないことを夢中になってやり続けていきます。
人によっては、自分がおかしな目に合うはずがないからいまやっていることは正しいんだ、という自己暗示をかけ続け、ますます他の話や対立するような逆の立場を受け入れられなくなっていきます。
それは、例えばワクチンに賛成であっても反対であっても、同じことです。
わからないものはわからない、といえず、自分が正しい、その自分と異なる意見は間違っているかそれ以下である、と決めつけて、執着を強めながら押し切ろうとします。
どちらかに決めつけて息巻いている人は、一度自分の中に、「わからない」という選択肢もあるんだ、と自覚し、それを実際に選択する経験を意識して行ってみてはどうでしょうか。
人がパニックになれば、決めつけや思い込みに付け込んで好き勝手やる人もいます。
意図的にパニックを起こさせられたなら、自分のために使える能力やエネルギーなどが、他の誰かのために勝手に利用されることも容易でしょうし、実際にあちこちで起きていることではないでしょうか。
コロナにしてもウクライナのことにしても、パニックになって偏った判断で無理に押し切ろうとすることで、みずからおかしなことを選んでやってしまい、苦しい立場に追い込んでいるように見える人たちが多いように思えます。
例えばの話ですが、新たな負荷がかかる、ということは、もしかしたらまたなにかパニックになりやすいことが起きるのかもしれません。
程度は言われないので、もっと些細なことの可能性もあります。
しかし、これ以上同じことを繰り返す必要はなく、よりよく生きていく、という方向性で抜け出ていくこともできるはずです。
なぜこういう事態に陥ってしまったのか、それを繰り返さないためにはどうしたらいいのか、次同じようなことが起きたらどう対処すればよくなっていけるのか、エゴのチェックとコントロールの話を思い出して考えてみてください。
とっさのパニック状態での判断ミスが、おかしな行動のもととなり、生きづらい結果をもたらしています。
無意識の歪んだ思い込みで暴走するから、おかしなことをします。
しかし、パニックになった時、その無意識の思い込みが理屈に合った歪みの少ないものであれば、例えとっさの判断でも、自分を生きづらくすることが少なくなるばかりか、返って生きやすくなる選択の機会になることさえあるかもしれません。
無意識の思い込みは、ある意味、癖と考えることもできます。
日ごろの積み重ねで変えられますし、時につよい思いで変えることもできるものです。
それを、とっさでも不意うちでもない、何気ない普段の生活の中で確認しながら意識して過ごすことで、私たちは無意識をしつけなおして急場でも自らの思いに沿った生き方を選んでいけるベースとしていくことができます。
不幸な人生だ、と嘆いて終わるのではなく、自分が不幸になるなりのことをやっていないか、考えてみてください。
本当はこうしたかったという思いがあるのなら、それに沿った行動をしてきたか、してきていなければ、わずかでもいいので、気が付いて意識できているいまこの瞬間に行動を変えられることがないか、頭に浮かぶ言葉を一言だけでも修正してかえてみることができないか、考えてみてください。
生き方を変えていく、ということはとても大変なことです。
時間がかかるし、自信がつくまでは人の言葉に惑わされたり、勝手に誰かと比較して自分から追い込んで落ち込んであきらめたりすることもあるでしょう。
根気よく取り組みをつづけるためには、自分のできていないことや目的に合わないことを闇雲に追い求めるのではなく、わずかであってもできていること、前に進めた経験、そういったことを思い出し、何度も何度も何度も、意識して気持ちを支えたり立て直したりしながら一つずつ積み重ねて変えていけばいいのです。
一度に大きな変化を期待する博打をうっても、まぐれで得た結果は「やることやらないでもうまくいく」という、長い目で見た時に役に立たない思いこみとして刷り込まれてしまうことがあります。
その思い込みで急場に対処できるでしょうか。
いざという時に、役に立つでしょうか。
エゴで生きている私たちを自覚することで、その特性に振り回され続けて終わるのではなく、その特性を上手に活かして自分を高めていくことができます。
私たちは不完全なエゴ主体で生きているのですから、うまくいかなくて当たりまえ。
それを気づいたところから改善していくことで、うまくいくことを増やしたり、望む結果に近づけていくことができます。
やればできる、ということの先に、やってもできない、ということもあることを、ひろかねさんと神さまのやり取りで知ったことがありました。
道のりは長いです。
見えないこと、わからないこと、そういったことに対して、私たちは仮説で向き合うことができます。
自分よりレベルが高い人たちが考えていることなども、仮で判断することがあると思います。
その内容はほぼ外れているでしょうが、失敗しながらでも理解に努めていくことで、いずれ分かることも増えて成長していきます。
道理や理屈を理解しながら、分からないことや見えないことに対して仮説をたてたりしながら、それを実際に行動に移して結果を通して答え合わせすることで、物事の理解や判断の精度を上げていくことができます。
不完全なエゴで生きづらいと感じるこの世界を生きていくとき、どう転んでもいいような判断ができるようになっていければ、どこでも通じる理屈への理解、真理を知ることへと歩みを進めていけるのだと思っています。
「魂の永遠性」ということを、日常で実感することはまずないのではないかと思います。
「肉体が終わればすべて終わる」と思っていれば、「命が一番大事」となるのかもしれませんが、「肉体がなくなっても意識が残り、魂は滅びることなく永遠とも思える時間の中に存在し続ける」と考えると、「存在」や「自由」に目が向く人もいるのではないでしょうか。
ただ、だれもが等しく確認できないことは、説得力に欠けることもあります。
こういったものをどう使うかは、その人が求めることの中で判断していけばいいでしょう。
ただ、確認できないからといって、「ない」とは言えません。
「わからない」というのがより適切な言葉になります。
この世界ではやった分だけ結果が出ます。
理屈に合った結果がでます。
できないことやわからないことをやっても、できなかった、よくわからない結果で終わった、となったりします。
わかったつもりでも、できるかどうかはわかりません。
できることの中で目的に合った取り組みができた時、できた、という結果に至る可能性が高まります。
結果がでるなりのことをやって生きていくことが、私たちが望む結果を出しやすくするために必要なことであり、その事を自覚して生きようとするとき、エゴのチェックとコントロールということの重要性を理解できるようになっていきます。
日常的に使う言葉には、その人の思い込みがあちこちにちりばめられています。
もちろん言葉に限らず、態度や雰囲気、行動などにも現れます。
生活の中で生じるあれこれに対し、二拓で、どちらか一方が正しく、どちらか一方が間違っている、と明確に断じていることがあれば、それはすべて明確にわかっている人くらいしか下せない判断でしょう。
テクニックとしてはっきり言うケースもありますが、そうではなく、言い切れるほどわかっていないにも拘らず自信満々で言い切る人が多いのも、エゴらしいといえます。
私たちはエゴ主体で生きており、それほど賢くもありませんし、多くの人たちがそれ以上にもっと大変な生き方をしています。
何も考えることなく生きていれば、よりよく生きていくことはしていないでしょうから、それは大半が思い込みと決めつけです。
何かあっても慌てて判断を下す必要がなければ、分かった気になったりマウントをとろうとあれこれ言わずに、「わからないこともあるんだ」と自覚して対処することを、普段からやっておくといいと思います。
そういう日々の経験も、これから何度も対峙していく負荷なり試練なりへの備えとあり、対処する力となっていきます。
長くなってしまいました。
例えわずかでも考えるきっかけになり、考え方を見直し、少しでも行動が変わり、生きやすさくなるならうれしいです。
一週間お疲れさまでした。