◎活気づく中国
アメリカの大統領選挙で一応の結果がでたことで、 中国の対外的な動きが活発化しています。
何ヶ月か前に見た動画でしたが、台湾のYouTuberの女性の方が話していた内容では、大雨の影響もあり、中国の昨年の作物の収穫量は例年の30%ほどだったそうです。
蓄えも含めて現在どういった食料事情かわかりませんが、食料事情が逼迫すれば、漁獲高を上げて食料を確保する一環で一方的な領土の拡大を平然とすることも考えられます。
周辺諸国との関係も、国内情勢や力を持つ人の都合によっては、切羽詰まって追い込まれていえばいるほどに、力をちらつかせる程度ではすまなくなることでしょう。
ここ数日の台湾への領空侵犯もそうですが、今回尖閣諸島での武器使用を認めたことで、支配領域を拡大する動きが今後さらに積極的になり歯止めが利かなくなっていきます。
例えば、沖縄はもともと中国の領土である、と強気の発言がでればどうなるか。
時間をかけて各国に多数の中国人を移民させてきたことでも、世界への覇権の下準備はしっかりされてきています。
日本への中国からの移民は、昨年か一昨年か忘れましたが、70万人という話もありました。
中国と台湾との関係性は以前から懸念されていましたが、軍事行動を実行に移す可能性が高まっていることと同時に、日本で暮らす私たちの生活への影響もあまり待つことなくはっきりしてきそうです。
トランプ大統領がどれほどの抑止力になっていたのか、痛い目を見てから気づいても遅いのですが、このままなにごともなかったかのようにアメリカの政治が継続していくと、私たちはぐだぐだな世界にまた一歩着実な歩みを進めることになるのです。
勘違いしている人もいると思うので補足として改めて書いておきます。
ぐだぐだな世界という書き方は、のんべんだらりとした私たちが思い込んでいた今までの世界が続くという意味ではありません。
この世界が進化向上する可能性が限りなく少ない状況がずっと続く世界です。
力を持っていれば自分の都合のために他人がいやがることでも平気で無理強いし続けることができる世界です。
歪みが解消されることはなく、誰かにおしつけて逃れ続けることができる世界です。
きちんとしたことをやっても負荷を押し付けられ続け、それがこれまでは隠れてなされ続けていただけでしたが、これからは表立って平然とされていきます。
それを今回の大統領選挙で私たちは垣間見たのです。
それに気づくこともなく、気づこうともせず、鵜呑みにしたことや思い込みと決め付けでそれらの片棒を担ぎ、助長し、歪みを減らすどころか増やしている人たちが主流となった世界が続くのです。
それも認められた自由の中での出来事です。
そこから抜け出すことなく一生を終えていくだけの世界へ、私たちはいま足を踏み入れかけているのです。
◎アメリカでおきている二極化の現象化
先日いらした方とのお話で出てきたものです。
それは、今アメリカはトランプ大統領とバイデン大統領の二つの政権が同時に存在している、というものでした。
そして、この先で一つに集約されるといくようでもありながら、しかし、それぞれが違う世界に移行していき私たち個々が目にするのは、自分にあった世界で一つの政権になっていく、ということのようで、なんともわかりにくいものでした。
二つの可能性が拮抗しているために、このように感じたのかもしれません。
二極化が現象化している、とも言われましたが、現実の世界に同時に異界が重なり合って存在しているような、不思議な感じです。
余談で、ネサラゲサラ?という話もネット上で出ていますが、これについても、「いまは黙って見ていなさい」の範疇にあり、とくに説明はありません。
神さまやトランプ大統領の動きに妄信的な人たちを見ていると、そのほとんどが自分以外をあてにしすぎてしまって、自分の世界の平和を自分がつくるということをしようとはしていないね、といわれます。
世界の平和を誰かが成し遂げてくれる、と思い込んでおり、救世主を待ち望む無意識の願望が色濃くでています。
ここでは、ずいぶん前にそういうことへの考え方は何度も書いてきました。
世界がよくなっても自分がやることやらなければ、自分はよくはなりません。
自分がよくなったからといって、世界がすべてよくなるわけではありません。
それぞれがよりよくという方向性のもと、自立して自分の幸せを生きられるようになっていくと、世界も大きく変わっていきます。
おせっかいや同情に依存に執着、そういうことを繰り返していても、今の自分が成長することなく過ごしていれば、自分のやってきたことを通してみる世界が変わるはずもないのです。
自分の考え方、行動を変えることで、それぞれの世界が変わります。
まずは自分をなんとかすること、それがいまの私たちがやることです。
現状の世界を認めつつ、今の自分が納得できる生き方をしていくことです。
どれだけ腐った世の中でも、どれだけ不正がはびこっていても、どれだけ理不尽がまかりとおる社会であっても、そこを否定している限りは、そういう世界に地に足をつけることはありません。
そこではないどこかに足をつけようと思っても、それはここではありません。
地に足着かない生き方になります。
あるものをあると認め、そこで不満が残らない考え方はどんなものだろうか、と考え、自分の中の否定を減らしていく取り組みを続けていくと、意識レベルを上げていくことができます。
それを求めてここを読んでいる方は、そのことを今一度意識してください。
◎余談
昨年の暮れから最近まで、負荷がかかっていた方たちがいます。
その方達が一山こえたことを、22日(金)に教えられました。
みんながみんなというわけではないものの、よりよくという方向性にあったこれまでの取り組みの結果がある一定量でることで、すこし楽になっている方たちがいるようです。
これまでと同じようにやっていても、結果が出やすい、気分がいい、否定的な感情が減って意欲的になって行動にまで移せている、など。
二極化の現れでもあるので、逆になっている方もいるそうです。
一山こえても、今後も世の中の変動が起きるごとにみなに負荷がかかります。
自分で判断できることでそこからの立ち直りが早かったり、負荷が軽く感じられるようになっていく人たちと、自分で判断できず翻弄されて疲弊したり、生きづらさを増やしていく人たち。
安易にあきらめることなく自分が納得する生き方を求める人たちと、嘘つきの言うことを鵜呑みにして自分を生きることをあきらめて一生を終えていく人たち。
不完全な私たちですから、行ったり来たりや浮沈などのゆらぎはあるものの、大きな目で見たときに進む方向の違いは、これからますますはっきりしていく、ということでした。
そして、すべては今目の前にあることへの自分自身の取り組みの先にあることなのです。