この先に姿を現した「漆黒の暗闇(夜)の時代」という可能性

◎やり取りの中ででてきた話

大河を抜けて大海に出る流れについて、また、先日これからのことについて「ひどくなる」と言われた一言について、改めて補足のような内容を受け取りました。

 

夏至を過ぎてからの数か月は穏やかな時期を過ごすことができていましたが、秋分を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなり慌ただしい雰囲気になるということを以前から言われていたことですが、その内容についてはあまり深く語られていませんでした。

 

しかし、本日やり取りした中でわかったことがあるので載せておきます。

 

 

 

 

◎いまは嵐が始まった夕暮れ時

いま私たちは、嵐の始まりの中、夕暮れの時間帯を過ごしているそうです。

 

しかし、その夕暮れがどういう状況での夕暮れかは、以前メッセージを受け取った時にはまだ未確定だったそうです。

 

いまはこの有の世界の神さまたちもどうなるかわからない未知の段階になっているため、その後の展開で大きく変わる可能性を秘めていましたが、ここにきて一つ動きました。

 

場合によっては、嵐もそこそこに夜明けに向かい、昼の大海の時代を生きていくという展開の可能性もあるにはあったようですが、この世界はそちらを選ぶことはなかったそうです。

 

そして、嵐の夕暮れのその先に待つのは、冬至以降のどこまでも漆黒の夜に覆われたかのような大海です。

 

ただ、その暗闇の大海の時代の中でも、夜明けの可能性はしっかり残されています。

 

しかし、それはとりあえず今のところは個々に異なるものです。

 

漆黒の夜の大海は、五里霧中で先が見えなかったり夏至までの洞窟の時期より、圧倒的にたちがわるいと感じます。

 

力がない人からすれば、座り込む大地も船の上で不安定、手探りで前に進もうにも、狭い洞窟の中とは違ってどこまでも広がる海ですから、触れるのはとらえどころのないものばかり。

 

そこに、時に嵐も加わるようだと、とてもではないですが、生きていく力がなければ持ちこたえることができません。

 

力を持つごく一部の存在たち以外、あてにできるのは自分だけ、そういう時代に入るということでした。

 

周りが見えず、どうなっているのかわからず、どこに向かっているのかも判断がつかなければ、ただただ、暗闇の海上を船に揺られて流されるまま漂うだけです。

 

不安に苛まれ、意欲もなにもあったものではありません。

 

時に激しい嵐にも見舞われながら過ごす日々、意欲をもって生きることができるでしょうか。

 

あきらめない、ということが実践でどこまでできるでしょうか。

 

自分を生きることなく、よくわからないことを言われるがまま鵜呑みにして、気が付いたときにはどうにもならない状態で生かされている、そういうことになりかねない世界が広がっています。

 

その暗闇に向かって、いま私たちは徐々に陽が落ちいてく夕暮れの中を突き進んでいる、ということでした。

 

 

 

 

◎暗闇の中で起きること

暗闇によってなにが起きるかというと、自分がない人ほど自分を見失いやすくなります。

 

これがより顕著になります。

 

一方で、自らを生きる人は、自らの足もとを照らし、自らの手元を自ら照らすため、その光の強さによっては灯台のような役割を果たす人もでてくるそうです。

 

ここで真剣に学んできた方の中には、自らの手元や足もとを照らせる程度になる人もいれば、それ以上に明るい視界の中で過ごしていける方も出てくるということでした。

 

いまのところ、その可能性は未知数です。

 

やってきたつもりでできていない人もいますが、そういう方は夜空にきらめく星を頼りに見当をつけながら進むことくらいはできるようで、本人のやる気と必死な取り組み次第で、そこをきっかけに変わっていくこともできるそうです。

 

 

 

◎より勢いづく存在たちと生きづらさが増すこれから

また、暗闇の世界に入るということは、人が見ていないところで好き勝手やる存在たちがまた活発になる、ということです。

 

そういう存在たちは、様々な情報に振り回される人々の喧騒に紛れ込むように姿を隠し、身を潜めながら、自分たちの都合のいいように活動をしていくのでしょう。

 

ある時期から世の中が明るく照らされて、これからは隠れて好き勝手にやり続けることができない、そういう時代に変わる方向に動いていたはずでした。

 

そして、隠れていた者たちが表に引っ張り出されかけましたが、表に出てもなお素知らぬ顔で好き勝手やり続けられる存在たちもいたようなので、そういう者たちであれば、この先の暗闇の中で好き勝手やることに拍車がかかることは目に見えています。

 

また、内部闘争とは異なる変革と現状維持のせめぎあいの中で巧妙に立ち回る者たちの知恵とエネルギーもかなりなものらしく、それに呑まれてしまった人たちのエネルギーが、そちらにどんどん注ぎ込まれてしまって、いま世の中の変革に向けた流れは一部の人たちの中で高まる中、多数の人たちの中では、いつ明けるともしれない永い永い暗闇の世界へと自らを導いているそうです。

 

力を持っている者たちの都合に基づいて好き勝手やられたら、弱い存在たちほど生きづらくなることが増えていきます。

 

いまでも、病気に対する恐れから様々な制限が課されることにより、私たちの生活は大きく様変わりしてしまいました。

 

この先能力がなければお金稼ぐことはままならなくなる一方、制度が変わって税金があがったり、社会保障が減らされて死ぬまで働き続けることも求められるかもしれません。

 

その影響で感じる生きづらさは、日常生活に暗い影をおとし、さらにこまごましたことの中で否定的な思いを湧き立たせ、自らを歪め生きづらくすることになります。

 

そうなると、かつてない規模で、かつてない強さで、暗闇の世界に自らを縛り付けることになるのでしょう。

 

一方で、神さまサイドが計画に基づいてカルマの解消を促し、この世界に負荷をかけることも続けるため、これまで世の中を牛耳っていたような存在たちにも、すべてはかわし切れないほどの負荷がかかります。

 

厳しい時代の可能性が、姿を現し始めています。

 

余談ですが、これを書いていて、映画マトリックスの中で、人々がカプセルの中で生かされているだけの世界、その光景が繰り返し頭に浮かんできました。

 

 

 

◎夜明けをもたらすのは

そんな暗闇の中にありながら、自らを生きる人たちは、そうしたせめぎあいの中でどちらに捉われるともなく自らと自らが歩む道筋を照らします。

 

いうなれば、暗闇は否定のエネルギーです。

 

つまり、人々の否定の思いが強くなり、否定がつよい時代になるということです。

 

人々の偏ったつよい思い込みで社会制度やルールが変わり、本来なら私たちの自由度が増して生きやすくなっていくはずが、逆に自由が損なわれたり奪われるようなことが大義名分があるかの如く平然と行われて生きづらくなっていく、ということが分かりやすい例かもしれません。

 

肯定という言葉の意味をこの闇の中で気づいて体験し、理解しながら自らをよりよくしていく、自らを生きる人たちはその流れに乗って大海を進んでいくことになるのです。

 

この暗闇の時期はいつ明けるともわからないものです。

 

しかし、自らの取り組みの結果が、夜明けをもたらすのだそうです。

 

そういう方にとっては、暗闇といってもそこまで暗くは感じることはないでしょうし、時代というよりは時期という感じで、それほど長くはならないようです。

 

今回の話を踏まえて、暗闇が明ける人もいればずっと暗闇に留まる人たちもいるようなので、1~2年で世の中が変わる、というわかりやすい変化が起きるようには思えませんし、都合よく時代が変わるのをただなにもしないでじっとこらえて待つ人たちの期待に添うような展開はほぼ潰えたように私には思えます。

 

個々の展開の違いとは別に、この世界の行く末については、そのまま闇がずっと続いていくか、夜明けをむかえることができるのか、それともそれ以外の展開があるのか、それはトータルの結果によるものであり、その結果がでるのはまだまだ先の話のようです。

 

なんにせよ、世界や社会がどうあれ、自分のためにやることやらないと自分の運命が変わらないのはこれからも同じです。

 

この先の自らの運命を切り開き、自らに夜明けをもたらすのは、私たち自身の今この時の取り組みなのです。