◎余談 白い炎をまとった巨大な鳥
先ほど、白い炎をまとった巨大な鳥が地球の上空に羽ばたいている姿が浮かんできました。
昨年、光の繭に包まれて新たな段階に入りましたが、またさらに違うステージへ変わっていく準備が始まっているようです。
人々の中で軋轢が生じて世界が軋みはじめ、そこから更に新たな負荷の準備が始まっている、ということでした。
昨日の龍もそうですが、また浮かぶ光景に変化があれば更新していきます。
◎道理や真理に照らし合わせて考える
今後の大局として、全体が歪みを減らして今よりも歪みの少ない方向へ動くのであれば、私たちも自分をよりよく生きていくことで、全体と方向性が合い、個々には追い風が吹くように気づきを得たり、成長しやすく感じる機会が増えていきます。
しかし、今は拮抗した状態で現状維持につよく引っ張られてもいるので、油断して足もとをすくわれないため、全体がどう動いていくのかは、私たちには結果をみる最後までわからなくなってもいるようです。
簡単にいえば、私たちエゴ主体で生きている者にとって、自分であれこれできるレベル話ではないので、全体のことを気にしていても意味ないよ、という話です。
そういうことが気にして取り組んで変えていけるレベルであれば、その時考えてやればいいことですが、私が思うに、それができるのは覚醒した人でも、人間としての基準をはるかに超越したような人でなければできないことではないでしょうか。
そんなことよりも、まず自分のこと、手の届くこと、身の回りのこと、そこをしっかりすることの方が、幸せに生きるためにははるかに重要です。
いつも書いていますが、やることやらないとよくはならないし、よくなるつもりでおかしなことをやっているうちは、どれだけやってもよくはなりません。
自分がおかしなことをやっていると気づけるようにしていかなければ、気づけないものを変えることすらできません。
なるべく広い視野でものを見て考えられれば、おかしなこと、歪んだ考えなどにも気づきやすくなります。
しかし、歪みに気づける広い視野や全体を見ることは、私たちエゴには成長が必要で時間がかかりますし、不可能なことです。
一生をかけて経験することで、少しずつ理解し視野を広げてきたとするならば、歪みに気づける視野を獲得するには今よりも成長しなくてはできないことです。
成り行き任せで身につくものとして考えると、それは幾転生も繰り返した先で少しずつ身につくかも、という話なのです。
「それをやり続けてきた結果、ある程度仕上げの段階に達した魂も多く、いまのこの総決算の時期に私たちは生まれてきた」と、神さまからも言われますが、エゴ主体で生きているいまの私たちでは確認が取れないことなので、過去生はどうあれ、まずは方向性を定め、いまの自分が置かれた状況で問題になっていることに取り組む、それが大事だと考えています。
そして、そうした自分に起こる問題が自分のおかしな考え方や思い込みに由来していないか、より広い視野や全体を見渡せる立場からの考え方と問題を照らし合わせることで、自らの歪んだ思い込みに気づくことができるのです。
それが理屈で考えるということであり、そこで使われるのが道理や真理とよばれるものです。
◎負荷をきっかけに変えていく
より広い視野に立って物事が分かる人から話を聞く、そういう方が書いたブログや本を読む、今なら動画を見る、それによって知識を入れて、経験を通して理解を深め、自分の判断で自分のことを確認できるようにしていく、そして自分が目指す方向に向けて成長できるように物事を判断しながら、自分にとっての最善を選んで行動に移していければ、誰かや何かをあてにすることもなく、不満や後悔少なく納得のいく自立した生き方ができるようになっていきます。
きっかけがないと、私たちは今の生活を変えないで、維持しようとしがちです。
しかし、その維持しようとすることの中で、たくさんのウソを自分につき続けたり、本音を抑えてしなくてもいい我慢をしたり、無理やり正当化しようと周りに責任転嫁することもあれば、理屈を曲解して自己満足で終わらせることもしています。
そうした現状維持の世界が続くことを、神さまは「宇宙が腐ってどうにもならなくなっていく」といいます。
一つの要因として、私たちのそうしたエゴの歪みの集積があり、「幾層にも分かれて存在するものたちの歪みもなかなか減らないことで全体の進化は停滞した」とも神さまはいいます。
それを変えるために、事態を動かすために、「これから負荷がどんどん増していくよ」ということは、かなり前にブログであれこれ書いてきました。
厄災の類で負荷を感じることは気分がいいものではありませんが、人によってはそれをきっかけにして、重い腰を上げて動くことはしやすくなります。
周りがどうあろうと、自分が不幸であれば気分は悪いでしょう。
エゴ主体で生きている私たちは、他の人のことはたいして気にして生きていません。
自分の損得を中心にものを考えているので、特にならないのに誰かが自分を幸せにしてくれるはずがないのです。
だったら自分のことは自分でやればいいのです。
まずは自分で自分のことをなんとかしていく、それがいまもこれからもずっと私たちがやることなのです。
例えば、親の面倒を見るのは当たり前だと思い込んでいる方もいると思いますが、親なら少しでも自立しようとする姿を見せる方が先で、子供を当てにして文句や不満を言うのはおかしなことだと思います。
困った時はお互いさまで助けを求めていいですし、互いに納得して面倒を見るなら特に問題もありません。
好きでやればなおいいので、面倒見たいと思ってもらえるようなことをやることも、一つの取り組みの方法です。
私たちは知らず知らずのうちに、おかしなことをしています。
それでよくなるはずがないのに、よくなると思い込んでやり続けます。
そのことに気づいて行動を変えていくとき、自分を生きることが始まりますし、運命も変わり始めます。
今の自分に納得できていればいいのですが、そうでなければ、こういうことを一度しっかり考えてみてはどうでしょうか。
◎どんどん不幸になる取り組みに気づいていく
人間不完全なのですから、うまくいかないことは多々あります。
悪意なく失敗すれば、素直に謝るだけですし、それを許すか許さないかは相手の問題なので、そこをずっと気にする必要もありません。
なにかやらかした時は、これでだめなら仕方ないと思えるところまでしっかり謝ることです。
けじめを自分でしっかりつけることで、問題が起きても一区切りつけることができます。
自分のやったことに対して素直に認めることが正直に生きることであり、自分にウソをつかない生き方を少しずつでもできるようにしていくことで、後悔を残さない自分が納得できる生き方になっていきます。
失敗を嫌がったり、それを気にして自分を責める方もいますが、そういう方は、「不完全な私たちなのだから、そういうこともあるんだ」と思えるようにしていってください。
なにか失敗して、直後にそう切り替えられないなら、落ち着いたころにそういう風にしっかり考えて納得しておくことで、次から自分の反応も変わっていきます。
昔やった許せない失敗などで、自分をチェックしてもいいでしょう。
思うようにいかないことはこれからも続きます。
そこでいちいち気にすることでもないことで、無意識とはいえ、腹を立て、落ち込み、人を憎み罵倒し、見下して嘲(あざけ)る、そんなことをしていても周りとうまくやっていけるはずがありませんし、やったことが返ってきて幸せを感じるとも思えません。
そういうところを地道にチェックして変えていくことで、その人の運命は大きく変わっていくのです。