◎「わからないことをわかるようにしていくのが人生」
先日、「だってバカだから」というブログを書きました。
あれを読んで皆さんはどのように思ったでしょうか。
エゴについて理解が進むと、こういう時にどういった反応をするかもわかるようになっていきます。
私が「自分はバカです」と書いたのを見て、「そういう面もあるよね」「人によってはそういう人もいるよね」と、考えた方はいるでしょう。
その陰で、「でも私は違う」とエゴの特別視がしゃしゃり出てきたことに気づかない人が大半ではないでしょうか。
そこに気づかないから、一歩前に進めていない、そういう人がほとんどなのです。
自分は違うと思った時点で、よりよく生きる方向性の取り組みとしてはまちがっています。
「気づきが大事」とはよく目にし耳にすることですが、それは「自分は普通に生きていると思っている時点でアホ」ということです。
自分もアホなんじゃないかと思った時点で前進がはじまります。
気が付かないと抜けられないのです。
自分がアホと気づく、とは、不完全さに気づくということでもあります。
だから、自分がアホではなく普通だと思うことが、その人がアホとかバカたる所以になるのです。
◎行動に移すことの意味
諸説あるようですが、ソクラテスが言ったとされる「無知の知」とは、こういうことなのです。
「実るほど頭が下がる稲穂かな」という言葉もありますが、わかればわかるほど、気づけば気づくほど、知らないことやわからないことで私たちの周りは埋め尽くされていることに気づいていきます。
考えているだけではわからないこと、やってみてわかること、というものがあります。
覚悟をきめてみえてくるもの、腹をくくってわかること、集中しなければ気づかないこと、経験したからこそ語れること、現地に行って理解すること、付き合って見えてくること、3年やってわかること、などなど。
私たちはわからないこと、知らないこと、やったことがないこと、気づいていないこと、それらで埋め尽くされたかのような世界で日々過ごしているのです。
そこに有るものを有ると肯定する、たったこれだけのことがどれだけ大変なことなのか、それは実際に「有るものを肯定する」をやってみないとわからないことです。
しかし、やった分だけわかるようになります。
◎気づけるために
例えば、料理をする中で、素材の良し悪しというものがある、鮮度、産地、大きさ、切り方、調理の仕方、盛り付け方、器のあれこれ、調理器具のあれこれ、もてなす部屋や接し方、空間の間取り、雰囲気、服装、色合い、香り、そのお店に至るまでの景色、などなど、そうしたものが「有る」と気づいたからこそ、そこに創意工夫をしながら目的に合った改善を繰り返すことで、よりよい料理の取り組みが磨かれていきます。
それら一つ一つに気づくまでに、多くの人たちが長い月日をかけてきたものもあることでしょう。
気づくまでの大変さは、まずやってみないとわからないことも少なくありません。
実際にやってみて、一つ気づくのにどれほどの手間暇がかかるかわかると、それを知りえたありがたさに感謝したくなることもあります。
なにがしかの物事、仕組み、考え方、そうしたものが有ると気づくまでがまず大変です。
しかし、有るものを有ると気づくからこそ、変えていくことができます。
自分がアホだと気づくからこそ、そこを改善していくことができます。
その一歩を踏み出すかどうかは、気づくかどうかです。
自分のアホさに気づけるには、「よりよく生きよう」「幸せになろう」という方向性を出していないと、まず気づけません。
ですから、何度も何度も同じことを書いているのです。
「あなたはどうしたいの?」と尋ね、「まず方向性を出しましょう」と繰り返すのです。
大事なことだから何度も書くのです。
目的を持たなければ同じ方向に進み続けることはできません。
行き当たりばったりの人生で、思い込みにはまり込み、同じところをぐるぐる回っておしまいです。
周りに何かあるごとに振り回され、自分のやりたいことはできないまま、不平不満の人生で総括するのです。
◎うんこに気づかないと変わらない
例えば、「幸せになりたいですか」と尋ねると、全員「はい」と答えます。
そこで次に、「幸せになるなりのことをしていますか?」と聞いてみると、よくわからなくなってしまう方がほとんどです。
私もそこから始めています。
なぜよくわからないかと言えば、聞かれたら考えるけど、日ごろからは考えてもいないし、やってもいない、ということです。
方向性をだすことなく、その場の都合であれこれ判断していても、気づけることはその場の都合にあったことくらいです。
アホと思われるよりも賢いと思われた方が都合がいいことが多いので、できもしないことをできるかのように見せ、やってもないことをやったかのように主張し、知りもしないことを知ったかぶり、何かにつけて賢く見られるようにふるまいます。
しかし、お尻にうんこつけたまま賢く振舞って着飾っても、臭いは周囲に漂い続けるのです。
ずっと臭いのです。
うんこついてるかもしれないのに、「自分は大丈夫」と思い込む人を、「幼い」といいます。
そういう人に「うんこついてるよ」と言うと、怒るかショックを受けて落ち込んでしまいます。
そこで気づかない人は、「自分は大丈夫」という根拠のない思い込みのまま、悪臭を漂わせながら悠然と毎日を過ごしていきます。
うんこがついていないか、臭くないか確認することがエゴのチェックです。
それでついていることに気づけたら、きれいにするのがコントロールです。
慣れないうちは一度できれいにできないので、失敗しながら上達させていきます。
やらなければできるようになりません。
ある程度気づいて大人になった人は、「うんこついてるかもしれないから、確認しよう」と自分で考えるようになります。
幼いから十分手が届かず、鼻が悪くて臭いがわからず、目が悪くて見てもわからない、幼いから考えてもよくわからない、そうであればわかる人に聞けばいいのです。
私はひろかねさんにそれをやってもらい、私がいらっしゃる方に対してやっていることも同じ理屈です。
失敗や間違いは仕方ありません。
自分が嫌なら、同じことを繰り返さないように、そのまま放置しなければいいだけのことです。
だから、気づいたところからやればいいよ、とひろかねさんは話してくれますし、私もブログに何度も書いてきています。
◎自分でお尻を拭けるようになればいい
自分のお尻の拭き方をまともに知らないまま、私たちは肉体的には大人になってしまいました。
それをずっと繰り返してきたのです。
ですから、多くの人が、「お尻を拭いてきれいにする(エゴをチェックしてコントロールする)」という考え方が有ることにすら気づいていません。
考えなしに生きているから気づくことがなく、気づかないからできないのです。
だから、「方向性を出しましょう」「頭を使って考えましょう」と何度も何度も書くのです。
「お前臭いんだよ」と罵倒されてショックを受け、人から嫌われてから何とかしたいと思うようになり、少しずつうんこを拭きとってきれいに身だしなみを整えて、社会性を身に着けながら自分の思いを生きるようにもしていくことで、自分の幸せを感じて生きていけるようになっていきます。
(おかしな考え方という)うんこにまみれた人たちで、この地上は埋め尽くされています。
この世は愛と光で満たされている、という方がいますが、神さまたちから見たらどのように映っているのでしょうね。
「そりゃ、きれいにしたくもなるよ」と言われそうです。
今回は、小妹さんに漫画にしてもらうとモザイクだらけになりそうな内容でした。
夏至までの過ごし方、二元性を越える、アセンションする、など小難しい話はたくさんありますが、どれもお尻を拭けるようになればいいだけのことです。
そうすれば、おのずとそういう流れ(運命)を自ら作り出していくので、あれこれややこしいことを考えなくても済むのです。
地震が起ころうが、コロナが流行ろうが、不景気になろうが、できることはいま目の前にあることです。
それを自分の目的にあった選択をして取り組んでいくだけです。
いついかなる時もそれは変わりません。
◎余談
先週の6月5日(金)に見た夢の中で、「6月18日」という日付が出ていました。
なにを指すのかわからないので掲載しても仕方ないかと思ったのですが、日が経つにつれてなんとなくいい感じがしないため、一応掲載しておきます。
日付についてかすかに感じていることで書くと、自然災害であれば大きめの地震か大雨のようなもので、経済面では株価の暴落のようなことでしょうか。
万が一起きた場合、自然災害については、そこそこの被害がでるかもしれません。
とはいえ、なにが起きても日ごろの取り組みの中でやってきたことで対応することになります。
事前にどれだけ備えていても被災する人は被災しますし、なにもしないままでも免れる人は免れます。
どんな状況でも、できることは身の丈に合ったことであることに変わりはありません。
いま大事だと思うこと、いまやりたいこと、それらはどれも人それぞれ違うので、納得いく取り組みができるようよく考えて行動してください。
日付とは別の話で、最近見たいくつかの夢がなにか同じことを暗示しているような気がしています。
なにかの節目が近い、そんな感じです。