見えない世界でいま起きつつあること 後編

◎これまでは身の丈以上の恵まれた環境でした

 

前回の話とは別に、これまでの世の中の弊害といえるものだと思いますが、ある一定レベル以上の存在に対しては、個々のカルマとは別に全体の歪みが押し付けられていました

 

大多数の個々のカルマで手一杯の人たちの肩代わりを、意識レベルが非常に高い人たちは、なかば強制的に請け負わされていたということです。

 

(軽やかに「それ、私かも」と思った方は該当しないそうなので、安心して目の前に山積みされているカルマ解消にいそしんでください。通常そういう高いレベルの方にお会いすることはまずありません。)

 

これまでは、連帯責任や陰ながらなされてきたそうしたことによって、ある一定の全体の均衡が保たれていたため、それらも猶予の一環として考えれば、私たちは非常に恵まれた環境で過ごすことができていました

 

しかし、肩代わりする人たちや、成長によってカルマ解消していた人たちがそれをしなくなっていくと、それまで個別のカルマで手一杯だった余裕のない人たちに、肩代わりしてきた分が流れ込むことが始まります。

 

段階的に調整されるのかもしれませんが、その速度や頻度や量は、これまでの比ではありません

 

この先、急速に待ったなしで請け負わなくてはいかなくなると、例えばコロナウイルスの感染拡大と共に、カルマの解消として重症化や命を落とすことでそれをまかなうケースも増えていくそうです

 

(ここでも混同する人がいそうなので書いておきますが、重症化する人や亡くなる人が、必ずしもそういう理由だけでそうなるわけではないので、ご注意ください。)

 

 

 

◎やってきた人とやってこなかった人

 

1か月ほど前、ネット上に武漢の様子が動画で流れていました。

 

感染が一気に広がり、病院に人が殺到して行列ができている光景がそこにはありました。

 

罹患した人が一斉に増えると、押し寄せる人の数に対処できない病院の受け入れ態勢がすぐにパンクしてしまいます。

 

同じように、重症化し他人に対して人工呼吸器や投薬治療が遅れてしまうケースが後を絶たなくなるのは、日本でも起こりうることです。

 

今後人心が乱されるようなことが各所で起こる中で、先日書いた一部の人たちと多数の人たちとでは、世界に対する印象がどんどん変わっていきます。

 

こういう内容を見ると、狭い視野で考える人は自分に都合よく解釈しようとするので、「自分は大丈夫」と勝手に思い込もうとしますが、やることやっていてもかかるときはかかりますし、やることやってなければ後で焦るだけでなにもいいことはありません。

 

やることやっている人は、目の前のことに集中しているため、こうした話もあまり興味がなくなってきているはずです。

 

「やることやらないでいて、興味がないふりをしてもつらいだけだからね」

 

とここでも一言ありました。

 

エゴは私達が油断したところを見逃しません。

 

釘を刺された方は、素直に自分の気持ちを認めるようにしてください。

 

まだ少し先のことのようですが、やることやってきた人たちと、そうでない人たち、その違いがある時期を境に段階的にわかりやすくなっていくそうです。

 

 

 

◎余談

 

シンプルにまとめられず長くなったので読みづらいかもしれませんが、ここまでは今日中に書いておいた方がよさそうだったので、掲載しておきます。

 

1月の後半だったと思いますが、「2月15日以降、(私は)予定が立たなくなる」と言われていました。

 

これから日に日に展開が早く激しくなっていき、来週もさらに混沌がましていくというので、近々なにかあるかもしれませんね。

 

あとで後悔したくなければ、できることの中で精いっぱい今やれることをやっておくといいと思います。

 

以前どこかで書いたかもしれませんが、疲れていることをやらない言い訳にしても、あまり意味がありません

 

猶予の中でやることをやってきた人たちは、そのことがわかると思います。

 

しかし、その猶予が過ぎて、いまこうしてコロナウイルスの騒ぎの中で免疫のことなど気にしている人は、疲れをため込まないために休まないと不安でしょうがないでしょう。

 

負荷がかかる中でなにかをやろうとすることは、今後ますます難しく感じられるようになっていきます。

 

しかし、前もって話を聞きながら「やってこなかった」という選択をして難しい状況を作るのは他でもないその人であり、それがその人のやってきた結果となっていくのです。

 

今後の展開は私達にはわかりませんが、どうなっていくにしても後悔したくなければ、できることを考えて取り組むようにしてください。

 

猶予の時期が過ぎたとはいえ、いまはまだその余韻の中にあるのですから。