◎二元性を越えた一元性
全肯定してこの有の世界を正しく認め、因果律を歪みなく使えるようにしていき、自分の思いを生きていけば、自分の思いは常に果たされ、皆がそれを理解して実践できれば、変化し続けるけれども歪みも生じない。
愛を認めて愛に生きる、という言い方でもいいかもしれませんが、ひろかねさんから聞いたこの宇宙の完成形と一致してきます。
二元性を越える、統合する、完全覚醒する、意識レベルを上げていく中で、その段階の上がり方についての表現はいくつもありますが、「全肯定」という言葉が一元の表現であることにみなさんはお気づきでしょうか。
いろんな方たちの動画などでは、最近流行りなのか「統合」という表現を見かけます。
現代なりの表現なのかもしれませんし、それが具体的にどういうことなのか、わからず曖昧な表現で使い続けている人たちもいるようです。
◎自分のために
ひろかねさんからは、この宇宙の完成形のさらにその先の話 も聞いていますが、それは悠久の時の中ではるか先にある可能性のお話です。
いまの私達にはそれを気にする以前に目を向けるべきことが、文字通り山のようにあります。
この宇宙の完成形、その前段階が、私達個々が完成していくこと、つまりエゴを完成させていくことです。
一人一人が自分で自分をよくしていくことにより、全体もよくなっていきます。
それをしないでおいて、「全体を変えていこう」「よくしよう」では、順序が違ってしまい、よくなるなりのことをしていないことになるのです。
基本的にエゴは、自分のことにしか興味がありません。
だったら、興味のあることをよくしていけばいいだけです。
自分の幸せのために一生懸命生きればいいのです。
みんながみんなそうすれば、誰かの肩代わりを自分を犠牲にしてまでやる必要もありません。
自分の境涯があがり、それができるようになったとき、そのことが自分にとって優先順位が高いものであれば、自分の意思でやればいいことです。
だから、まずは自分のことは自分でやれるようにする、自立する、そうしたことが昔から成長の方向性としていわれてきたのではないでしょうか。
◎繰り返し確認する方向性
誰かにすがらせる、つながる、あやかる、それらが自分の成長に役立つならばある段階までは有効ですが、自立を目指すはずが、答えを聞くため、よくしてもらうため、と依存になり、それをエゴの特性で習慣化してしまうと、自立という方向性を見失っていきます。
そもそも、そういう方向性すらださないまま甘い汁を吸ってその味を覚えてしまうと、そこから先を目指すことに気づきさえしないでしょう。
自分が方向性を出して取り組んでいるのか、何度も何度も繰り返し折に触れて考えていただくといいでしょう。
◎三種の神器も自分に役立てられるように考える
三種の神器も、私達が方向性をだして生きていくことについて、ヒントとして存在しているものだと考えています。
鏡は自らを映し出すことでありのままの自分を認めていく。
勾玉は、あの形を合わせることで一つの円をなし、繋がりを通して全体を考えさせるもの。
剣は、思うようにいかないことが当たり前のこの世界で、自分の思いで生きていく。
ですから、実物そのものにも意味はあるのかもしれませんが、見るとその「物」にとらわれてしまうため、自分に活かす考えがでてこなくなることもあり、「見てはいけませんよ」となっているのかもしれませんね。
神話の意味は、人それぞれ解釈も自由になされるものですので、自身の役に立つように活用できればいいと思っています。