言葉について思うこと

◎思うこと

 

「人との違いや差異をゆるすことで、仲良く過ごすことができる」ということを、先週ひろかねさんから聞きました。

 

今日は今日で、「自分がしっかりすればいい」ということを聞き、自分の中ではっきり言葉にできていなかったぼやけたところが、よりはっきりした瞬間でもありました。

 

こうした言葉は何度も聞いてブログにも書いてきたはずなのですが、ちょっと視点を変えたり、前後の文脈を変えて話を聞くと、私は何度聞いても新鮮に感じます。

 

いまはもう改めて新たに教えてもらうことはなく、他愛もない世間話のようなことの中で、話を聞く機会を作ってもらっています。

 

どこを切り口にしてもこれまで教えてもらったことに行きつく ため、繰り返し繰り返し話を聞きながら整理されているものがあり、時折書いていることですが、理解が遅いなりに考え方もずいぶんとシンプルになってきました。

 

しかし、まだひろかねさんほど的確に、シンプルに、力を持つ言葉 を話すことはできません。

 

何気ない他愛もないように思える一言でも、心打たれるというのでしょうか、今まで以上にしみじみと納得して聞くようになってきました。

 

こういうことを書くと、妄信する信者か、憑依されて自分を見失ったバカくらいに思う人もいるでしょうが、これまで教えていただいたことをベースに理解ができることが増えてきたことで、「自分の成長につながる意味のある話を聞かせてもらえている」というはっきりとした実感があり、それは傍から見てわかるものでもないでしょうから、気にはなりません。

 

ただ、同じ方向を向いて話を聞きに来てくださる方に対しては、少しでもそうした「言葉」を、その方に合ったタイミングでお伝えできればと思って意識してお話をするようにしています

 

 

 

◎言葉に感じる難しさ

 

何度感じたかわからないくらい、ここ数年思うことがあります。

 

それは、「きちんとした言葉を話すことが、これほど難しいとは思っていなかった」ということです。

 

私のブログの文章について、抽象的なもの言いが多いことは自覚しています。

 

しかし、丁寧に見ていくと、的確かつシンプルな言葉を話すというのは、そうそうできるものではありません

 

 

 

私のこれまでの人生、恵まれた環境で優雅にお花畑の中を生きてきたため、アホやバカというところからスタートを切っていることは、ことあるごとに気づかされています

 

そこからいつ抜け出るのかはわかりませんが、マシな人生を送れるようになってきた ことを実感できています。

 

なぜそうなれたかといえば、ひろかねさんから教えてもらった内容を踏まえて、言葉をキチンと使おうとしてきたからです。

 

どれだけ立派に思える他の誰かをあてにしても、完ぺきな人などいないのですから、どこかで間違えたことをいうかもしれません。

 

それはこの有の世界における覚醒者や神さまと呼ばれる存在たちでも同様です。

 

だから、「自分がしっかりすればいい」「自分で考えてきちんとした言葉をつかえるようにしていけばいい」ということになるのです。

 

だからこそ、エゴのチェックとコントロールなのです

 

 

 

◎余談 地獄魂

 

余談です。

 

先日、それは不意に浮かんだ光景でしたが、地獄魂(じごくこん)という名の集合魂と、それに根差した個別の魂たちの姿が、そこにはありました。

 

人生の中で一つの方向性としてそちらを選んだ結果、そこに収れんされていった魂たちですが、その共通項は、「自分がない」ということでした。

 

いまは、そういうテーマの魂たちが収れんされている段階だそうです。

 

印象として、幼い、弱い魂たち、という感じでした。

 

このことについては、アセンションやディセンションということに関連があるかはわかりませんが、一つの方向性の先を見せられた のでしょう。

 

「自分の思いを生きること」、このことを意識して取り組めれば、べつにどうということはない話です

 

 

 

明日は新月で、また新たな節目を越えていきます。

 

節目を越えるごとに、意識的であれ無意識であれ、自らがだしている方向へと徐々に加速しながら進んでいきます