「お祈り」と「いま・ここ・自分」

最近話していること

 

最近いらしてくださる方によく話していたのは、「コミュニケーションについて」と「いま幸せになること」です。

 

「お祈りについてはき違えている者が多い」、ある方とのやり取りの中で、そうメッセージを受け取ったことがありました。

 

自分の幸せについて考えると、「いつか」「どこかで」「誰かに」というキーワードが出てくる方が大半ではないかと思います。

 

「いま」「ここ」「自分で」に転換していく作業を、この時期に私たちはやっています。

 

いま幸せではないからいつか幸せになりたい、ここでは幸せになれないからどこか違うところで幸せになれるはず、自分だけでは幸せになれないから誰かに幸せにしてもらわなくては、など。

 

 

 

自ら幸せを遠ざける

 

例えば、

 

「この地上で自己犠牲という徳を積むことで、死んだらあの世で天国に行けるよ」

 

と、言われたとします。

 

自己犠牲もそうですが、あの世まで待つ必要が果たしてあるのでしょうか。

 

自分も相手も幸せになればいいし、いま幸せになれることがあれば、それをすればいいのです。

 

いま幸せになると、あの世で幸せではない、とは言われていません。

 

いま幸せになることをやっているから、この先でも幸せになるのです。

 

いまできることがあれば、それをすればいいのですが、「いまではないいつか」、「ここではないどこか」、「自分ではない誰か」、そうしたすり替えが無意識によく行われているのです。

 

どんなささやかなことであっても、いま幸せになれることがあれば、それをすればいいのです。

 

なにも語らず笑顔を向けるだけでも、その場で互いに気分よくなれることもあるはずです。

 

いまここで自分でできることがあれば、わざわざ、いつかどこかで誰かに幸せにしてもらう必要はありません。

 

 

 

その理解では二元性を越えられない

 

お祈りは、いま幸せであることの実践です。

 

いま幸せだから感謝の言葉を口にするのが五井先生のお祈りです。

 

しかし、「これをやっていたらいつか幸せになれる」「(自分は文言唱えているだけで)五井先生(誰か)に助けてもらえる」、という思いでやっている方が多いため、その思いで熱心に繰り返しお祈りを続けることで、かえって依存と執着が強まる方もいて、「はき違えている」と言われたのでした。

 

ましてや、「これしかない」と他を否定して執着してやるのであれば、どれだけ熱心にお祈りをしたとしても、「これが正しい、他はまちがっている」という、二元性を越えられない段階にとどまり続けます。

 

他を否定することなく、いいものはいい、と言えれば、そこから二元性を越えていくことになります。

 

すでに「お祈り」をしなくなっている方も多く、今更という内容ですが、参考になる方もいると思いますので、掲載しておきます。