自分を知る

 

先日、Tさんからのメールで「自分を知る」という言葉が出てきたため、今回はそれについて思うところを書いておきます。

 

 

 

なにをどうやって知るのか、知ってどうするのか

 

自分を知るというのは、自分がやってきたことの結果を見て自分を知ることです。

 

自分が何を考え、なにを選択して行動にうつしたのか、それらが結果にすべて現れます。

 

よりよく生きていくのであれば、その結果を見て自分がどういうことを大事にしている人間なのか知り、どうしていきたいのかという方向性に照らし合わせて、修正をかけながらよりいい状態を目指して取り組み続けていく。

 

自分ではどうにもできないことについて、ああだこうだ言っていても、意味がありません。

 

いまできることが、自分をよくするために大事なことです。

 

それをやることが一番効率よく成長していくことです。

 

「覚醒できればラッキー♪」くらいに考え、できないことはあちらに任せて、自分ができる目の前のことに取り組むようにしていただければと思います。

 

 

 

取り組みの優先順位

 

必要な知識や情報や体験は、今を生きる中で必要に応じてもたらされます。

 

損得勘定が働かない状態で、方向性をつよく打ち出して取り組むとき、ゆがみの少ないインスピレーションがやったことの結果としてもたらされます。

 

瞑想やお祈りの効能は、こうしたことを理解したうえでやることが重要です。

 

さらに、今を生きている日常生活の重要性や特別視を減らしていくことがわかってくると、取り組み方はさらにシンプルになっていきます。

 

今の自分をよくすることを、できるだけ真剣に、必死にやっていただきたいと思っています。

 

いつか役に立つ知識や情報は、必死にやる必要がない暇な時期に目を通したりやればいいことです。

 

 

 

エゴのチェック

 

MidoriさんにしてもTさんにしても、指導を受けながら取り組んでいることは目の前のことです。

 

家族と一緒に過ごしている方は、身近な人ほど大切に、と以前ブログで書いたことを大事だとおもったのであれば、それを実践しているでしょうか。

 

伴侶の話をてきとうに聞いていませんか。

 

仕事をしている方は、社会性を踏まえて、周りとのかかわりの中でどうかかわれているでしょうか。

 

自分の正義を振りかざして、不平不満をまきちらしていないでしょうか。

 

会社で働くということがどういうことなのか、考えているでしょうか。

 

親子関係でいえば、隷属関係に持ち込んでいないでしょうか。

 

いうこと聞いて当たり前、聞かなければ感情的になって一方的な物言いでおさえこんでいませんか。

 

損得勘定が働いてもいいのですが、過剰に欲張りなっていないでしょうか。

 

因果応報を理解したのなら、ニコニコしてばかりいないで、自分がよくなるために行動に移していますか。

 

貧しくていやなら、お金を稼げるなりのことをどれだけやっているでしょうか。

 

これから時代がますます厳しくなるかもしれないなかで、仕事を適当にすませていて、いざ経済状況が一変した時、「なんでこんな目に合わなきゃいけないんだ」とぼやいたとしても、それは適当にやってきた結果がでるだけのことです。

 

悲惨でも、むごいでもなく、怠惰だったか考えたりなかったということで、世の中や社会以前に本人の問題です。

 

必死にいまからやっていれば、その結果がそのときでるだけのことです。

 

都合のいいことだけ考えて、自分に都合のいい結果になるようなことだけやっていても、都合のわるいことを無視していれば、都合の悪いことが起こるようなこともどこかでやってしまっているのが私たちです。

 

ものごとの両面を見て、よくなるなりのことを考えて、わるくならないなりのことも考えて、総合的に自分が納得いく判断をして行動に移していく。

 

後悔ない生き方が大事というのであれば、それをどこまでやっているでしょうか。

 

自分でできていると思えるだけの根拠がどこにあるのでしょうか。

 

正しいものを見て正しいと判断できるほど、物事がわかるのでしょうか。

 

いまの自分のレベルなりの判断をすることと、正しいことが正しいとわかるというのは、また別の話です。

 

やるほどに気づくことが出てくるはずです。

 

自分を知る、ということを考えていただくといいと思います。