他人ごとではない
昨日のブログで「亡者」という言葉を使いましたが、そのことについて思うところを書いてみようと思います。
地獄から噴き出したエネルギーが、エゴの歪みが強い人たちに引き寄せられていったということを書きました。
それは亡者の中でもつよい部類のエネルギーであり、搾取する側に向かって流れていったということもできます。
地獄こそ弱肉強食の世界ですから、強いものだけで成り立っているはずがなく、そこには弱い立場のエネルギーもあります。
そうした弱い亡者のエネルギーが噴き出した先でどうなっていくか考えてみると、搾取される側、自分が無い人たちがそれらを引き寄せる要素を持ち合わせていることになるため、行き着く先はそうした人々になるでしょう。
自分はどちらなのか
自分ではよくなることはせず、ただ人にすがって「誰かがなんとかしてくれ」と群がる様を思い描けば、その様子は「亡者」と同じでしょう。
以前ひろかねさんにいわれたことでもありますが、お祈りは確かに効果があると思いますが、やることをやらないでお祈りにすがるのは、さながら亡者の様と重なって見えてきます。
共に歩むという姿勢の五井先生に対し、群がる亡者となるのか、人として誠意ある姿勢で接するのか。
お祈りを大事にされている方は、自分がどちらになっているか考えてみて下さい。
以前の私は前者でした。
今見渡しても、大半の方が同じだと思います。
なにかお願いするのなら、頼む相手が払いのけたくなるような生き方よりも、おのずと手を差し伸べたくなるような生き方のほうがいいと思いませんか。
『神様はそんなに甘くはない。ついてこれない人間がどうなるか結果を見てからだと遅すぎる。』
ここでいう「やることをやらない」とは、自分で判断していないということであり、それはつまり自分を生きていないということ。
自分で考え、判断し、決断して、取り組む。
自分で判断して決めるということは、その決断の責任は自分にあります。
しかし、鵜呑みにして自分で決断しないということは、それは自分では責任とりたくないという態度でしょう。
私が講師を外されたとき、あそこに書かれたことをまんま鵜呑みにした人たちも同じです。
どう判断しようと、その人の自由があるので、自分で判断した結果なら、それ自体はそれでいいと思っています。
しかし、「こういう人たちは残っていけないよ」「生きる姿勢として改めなくてはいけないよ」と、わざわざ「20年後」の本で月読の大神がおろした話が理解されないまま、いまだにその状況がBBSでは続いている。
自分で考えた上で続けているなら、まだいいでしょう。
私と直接話をし、見て、考えて、離れていった人たちもいます。
ひろかねさんとじかに話をして、自分で判断して決めた人もいます。
自分で決めたなら、自分で責任をとれるからいいんです。
でも、そうした月読の大神の指導内容を理解できていないで、やることやってます、お祈りやってます、私はここを信じているから大丈夫ですよね、という媚びへつらう態度で書き込みをして、この先どうなっていくと思っているのでしょうか。
この期に及んでこういう状況になっていることは、期限が先延ばしにされた分だけ言い訳がききません。
信じるのは自由があるので、何を信じてもいいと思っています。
しかし、あがめる神が下した言葉だとほんとに思うなら、もっとちゃんと考えろよ、と言いたい。
そうした存在の言葉をおろそかにする者たちに対して、五井先生はそれでも手を差し伸べようとするかもしれませんが、どう感じるでしょうか。
『彼(虚空蔵55)は「20年後・・・」の本を書いて、ほぼ役割を終えた』、という言葉があったことをどこかで書いた思いますが、ということは、あの本までは大事な内容が書いてあるということです。
月読の大神が意味のないことをするはずがないんですよ。
時期が来てこの世の閻魔の採点を我々が受けるとき、代わりがいくらでもきくような人生でした、では、たいして価値があるとはいえません。
そのうえ歪みがつよく、新たな歪みまで生み出すのであれば、クズだゴミだといわれても仕方ないでしょうし、その上、地獄の亡者のエネルギーまで引き寄せてしまっては、文字通り救いようがないところまで加速して突き進むことになるでしょう。
総決算と呼ばれているやり直しがきかないこの大事な時期に、後戻りできないところまでいく可能性があることを知っておいてください。
この先、この宇宙を全体をつかさどる存在たちがどうしていきたいか考えたら、役に立たないような魂を残す理由があるでしょうか。
ゴミは掃除をして片付けるでしょう。
自分は大丈夫、と都合よく思い込んでいないでしょうか。
できていない、わからない、そういう方は聞きにいらしてください。