つよく言われると、つい信じてしまいます
例えば、途中経過で特別な見えない存在の指導を受けているあるエゴがいるとしても、この世界で動くのはそうした見えない存在ではない他ならぬエゴですから、100%完璧にゴールが保証されているわけでもありませんし、そのエゴがゴールをしたわけではありませんし、ゴールへの明確な道筋を知っているわけでもありません。
しかしエゴが強く歪んでしまうと、時にはゴールしていない段階でありながら、自らを特別視した立場からすべてをわかっているかのようにふるまったりもします。
エゴの私たちは不完全とこれまで何度かかきましたが、自信が無い分、そうした自信があるかのように発言する人の言葉に影響を受けて、自分と同じ不完全なその人をつい無意識に信じてしまいます。
この場合に信じるのは、「何を」ではなく、「誰を」です。
「誰を」で信じてしまうと、対等公平な関係で物を見ないで、相手を完璧な存在であるかのように見るようになっていきます。
そして何かあって、その人が自分を救ってくれる人でないと思うと、その人に取って代わられる人を探して、さ迷い歩きます。
キチンと理屈に照らし合わせて判断して信じているわけではないため、「救ってくれない」という判断も、エゴによる勝手な思い込みです。
依存対象が変わっただけで他者への依存そのものは変わらないので、問題は解決していません。
しかし、自分を生きられるようになっていけば、影響を受けることは減っていきます。
シンプルな基準で判断する
『結果を出した人の言葉かどうか』
というふうにシンプルに考えた方が、思い込み少なくありのままが見えてくるはずです。
スピ系の話なども、「よりよく生きる」という方向性をだしているのであれば、
『これは自分の成長につながるか』
で判断すれば、その内容の意味や意図が見えてくるようになります。
目を向けるところがずれていませんか
ひどい目にあうのが嫌で、「天変地異」や「あの人が救世主らしい」など、確認のとれないすごそうな情報を事前に集めていれば、世の中の混乱の中に会っても、自分だけは都合よく逃げ切れるかのように思う方も多いと思います。
しかし、カルマが返ってくるから悲惨な目にあったりつらい思いをするのですから、その情報を集める間に、考え方の歪みを減らしたり、意識レベルが上がることを少しでもやっておいた方が、ひどい目にあいづらくなります。
そういうことを考えさせなくさせられると、特別視をあおるような情報を次々流されて、自分の幸せのために動く(自身の成長、カルマ解消、歪みを減らす)のではなく、違うことに自らの運命を捧げるようなことになってしまうこともあるのです。
気づいた時からやった方が
ブログで書かれていたり、セッションや動画で話されている内容をきちんと読み解いていかないと、大事な話とあまり意味のない話、それらの内容をよく理解しないまま一緒くたにして、誤った判断を下しかねません。
今現在、そうした判断の渦中にある方たちも多そうですね。
今後ますますそうしたことがひどくなるであろう中、自分で判断できるようになることは、そのままその方の生きやすさになります。
気づくことができたなるべく早い段階で、自分で考える癖をつけるようにしていく方がいいと思いませんか。
諸々の事、ご自身で一度お考えいただき、わかりづらければ、いらしたときにおたずねください。
「喉元過ぎれば」といいますが、過ぎたのでしょうか?これからでしょうか??
「思うようにいって当たりまえ」という思い込みがあると、自分自身や身の回りで特別大きな問題がないと、「よりよく」という方向性が薄らいだり忘れてしまうことがあります。
しかし、実際は「思うようにいかないことが当たりまえ」の社会で暮らしているのですから、思い込みに気づいて変えることができれば、そういう時期にこそ少しでも正しい理屈を落とし込むように考えられるようになるでしょうし、その結果とっさの時に平常心を乱すことも減っていくものです。
強制されてやることでもないので、マンネリ化しているような方が考えるきっかけになればと思い、今回の内容は掲載しました。