「ある」ようで「ない」もの

善悪

 

エゴ主体で生きていると、善悪があるように感じます。

 

しかし、あるがままを認める、という立ち位置から考えると、エゴで感じているような善悪というものはありません。

 

また、本来自由が認められているのであれば、エゴが考えるような絶対的な正しさというものもありません。

 

不完全な存在が自由をもとにある方向性出したとき、その方向性にあった取り組みの正しさや間違いはあります。

 

善悪というものも、そうしたある方向性の中で生じるものです。

 

 

 

実はおかしなこと

 

「自分は正しい」、「いいことをしている」、そういった立ち位置から他者や過去の自分を裁くことは、日常生活で頻繁に行われていることです。

 

しかし、本来無いものを基準に裁くということは、理屈がとおらないことです。

 

これが私たちが物事を歪めていることの一つです。

 

 

 

親子関係で考えると

 

例えば親が子供を育てる際に、親が子供のためといって、何事においても先んじてお節介を焼いてしまうことがあります。

 

あれをしてはいけない、これはこうするといい、なんでそんなことをするの、など。

 

本人が考えながらやっていることを遮ってまで、本人が考える間もなく答えを与え続けていると、それでいい結果がでたと思える経験が続けば、その子は親の言うことを聞いていればいいと信じるようになり、それ以上考える必要がなくなってしまいます。

 

親が子供にそう思い込ませることに成功したといえますし、子供がそれを思い込むことを選択したともいえます。

 

どちらも自分にとって都合のいい理屈で、その関係性にお得ななにかを見出しています。

 

そもそも、親が与えているその答えが、本当に正しいのかどうかさえ実際は本人にもわからないでしょう。

 

しかし、親にしてみれば、それは親自身にとっては納得がいくいい答えなのです。

 

親にとって気分がいい結果になるはずの答えなのです。

 

子供にとってみれば、それを自分の判断を入れずに思い込むことで、自らの生存を脅かすものを少しでも遠ざけ、今ある中で少しでも快適かつエネルギーロスの少ない生き方ができるわけです。

 

その答えにたどり着く取り組みが善であったり、それを阻害するものや異なることが悪として扱われます。

 

そこから、親離れできないまま大人になっていたり、親から上司にとってかわられたり、宗教や特別な力を感じる誰かなど、依存する先を求め続けます。

 

ここでは親子関係で書きましたが、夫婦、兄弟姉妹、友人、上司部下、先生生徒、様々な人間関係の中で起こることです。

 

中途半端ですが、今日はここまでにします。