過剰反応
エゴの働きは、自分を存在し続けさせるためにエネルギーを保とう、節約しよう、というものです。
通常、エゴ主体で生きる私たちは、自身が永遠を生きる存在であるという視点ではないため、エゴで確認できる範囲だけでものごとを判断しています。
すると、世界が本当に無いのか確認できていないにもかかわらず、「わからない」というありのままを認める判断ではなく、過剰な反応として「無いもの」と否定的に決めつけることもあります。
全体が見えて、初めて正しいことがわかります
見えるものも見えないものも、形あるものも無いものも、どちらもあって全体が成り立っているのだとしたら、どちらかだけで全体が成り立っているかのように考えるというのはおかしな話ですし、判断した答えにも無理が生じます。
本来、仕組みの中にあるべきものが無くなってしまうと、その関係性は途絶えてしまい、機能不全をおこします。
全体が一つのつながりとして因果応報が機能しているのであれば、否定の混じった考え方でどれだけ判断しても、正しい答えにつながらないでしょう。
因果応報の仕組みを正しく機能させ、自分の幸せのためにその仕組みを正しく使おうと思ったら、否定を減らすことです。
否定に気づいてもそれを放置するということは、仕組みの不具合を改善しないため、思うようにいかない状態が続きます。
自分を否定する
否定を残したままでは、より正しい考え方にはなっていきません。
否定を減らしていけば、無視したり無意識に隠していたものが姿を現すため、より全体がわかるようになり、より正しい考え方ができるようになっていきます。
よりよく生きる方向性をだしていない人は、現状を維持しようとする考え方がつよく、問題解決のために自分を変えるよりも自分以外のなにかのせいにして、楽しようとします。
思うようにいかないことの原因が自分にあるのに、それを責任転嫁し続けていけば、自分を無視して否定していることになります。
現状維持と執着
全肯定の理屈で考えると、因果応報という仕組みを正しく使って、私たちは幸せになっていくことができます。
思うように生きられたら幸せですが、成長の無いその場限りの幸せは、同じことの繰り返しになります。
しかし、成長することによってそれまでの問題が問題ではなくなっていけば、同じことを繰り返すことはありません。
ものごとを固定化することを執着といいますが、それ以上成長しようとしないで同じことを繰り返すというのは、そのレベルにとどまり続けることになるため、ある意味そのレベルに執着しているともいえます。
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