いまある中で最高の考え方
全肯定は、私がいま知る限りで一番幸せになるための最善の考え方だと信じているため、自信をもってお伝えしています。
現状、私自身の理解は足りていないものの、「どの上位次元であっても通用する理屈である」、そう思っています。
問いかけ
自分を向上させるためのどんな取り組みでも、各自のペースでやることは自由があるのでいいですが、先日ある方にお話していて出てきた言葉は、
「全肯定は、力を出し惜しみして理解できるようなものではない。
今日一日を終えるときに、『まあまあやったかな』で終わるのであれば、なぜ「まあまあ」で終わるのか考えなさい。
なぜ『できる限りまでやった』にならないのかを考えなさい。」
というお話がありました。
それで納得できるのか
特別やることがなければ、ゆっくりのんびりやればいいですし、やらなくてはいけないときには、とことん納得するところまでやる方がいいでしょう。
休めるときに休むことも大事なことです。
しかし、やるべき時になにかをあてにして手加減しているのであれば、そこはよくよく考えた方がいいと思います。
皆が救世主であることの意味
「艮の金神」や「立派な神さま」がなんとかといっても、それは一つのきっかけにすぎません。
自分がやった分しか返ってこないのですから、誰が救世主だろうと自分を成長させることができないなら、どんな情報も大して役に立ってはいないのです。
皆が救世主である、と前回書きましたが、その意味がわかるでしょうか。
やることをやらないと救われることはない、ということです。
「なんとかして助けてもらわなきゃいけませんね」なんてことを言ってると、「まったく考えてなかったね」「やることできていなかったね」という結末しか私には思い浮かばないのですが、どうでしょうか。
全肯定の世の中になっていくということは、例外を認めないということです。
あなただけ特別、はありません。
「いい子にしていたらクリスマスプレゼントもらえるよ」、なんてこともありません。
やることをやるから結果がでるのです。
伝えていることは
ひろかねさんであっても例外ではなく、というより、ひろかねさんこそ自らも例外にはしません。
誰かを救うためになにかしているわけではありません。
とにかく、徹底して自分の幸せを求め続けています。
それはこれまで書いてきたことや、ご来院の際にお伝えしてきた内容を考えればわかることです。
それらは人を救う方法ではなく、ひろかねさん自らの経験から語る「自分を救う方法」や「自分で幸せになる方法」なのです。
← ここも出し惜しみしないでお願いできますでしょうか。